慢性自殺志向の内的現象

▶悪魔的な人物像(サディスティックな超自我)

 

生きるか死ぬかの過酷な環境では、愛着システムに作動された弱く甘えん坊の自己の部分は、無力化されて眠ってしまいます。日常では、身代わりの自己や対抗するための自己を作られ、過酷な環境に適応しようとします。そして、それぞれの自己は解離されていきます。

 

虐待はあまりに激しく体験できないことが起こります。虐待がどれほど大変でしんどくても子どもは親との繋がりを希求しており、良い存在であってほしいと思っています。虐待を受ける子どもは、親との関係でストレスやフラストレーションの耐性を超えると、意識から切り離されます。子どもは、親は悪くない、悪いのは自分だから暴力を振るわれるという理解をしていきますが、親の暴力に恐怖し、凍りついていきます。その一方で、受け入れがたい現実に対して、頭を使って危険を回避しようする部分や、やり場のない怒りを爆発させたり、攻撃しようとする衝動や半狂乱の部分を併せ持つことがあります。

 

理不尽な親の振る舞いに、やり場のない怒りを爆発させたり、攻撃しようとする衝動や半狂乱の部分は、更なる虐待を呼び込んでしまいます。また、思春期にかけて、体も大きくなるので、攻撃性は人や自分の体を傷つける結果になります。さらに、子どもが大人になるに連れて、自意識の高まりや、心理社会的意味を知ることで、受け入れがたい親への怒りや攻撃性は更に大きくなっていき、現実を拒絶していきます。子どもは、成長に伴い理性の部分が強くなっていく一方で、やり場のない怒りを爆発させる部分は非常に危険であるため、奥深くにある頑丈に鍵がかかった地下牢のなかに閉じ込めるしか無くなります。しかし、その部分は、日常を過ごす私の背後から見ており、監視したり、大きな精神的ショックを受けると、変性意識状態を通じて入れ替わり、肌を傷つける自傷を繰り返します。そして、いつの日か、善良さのない、悪魔的人物像(サディスティックな超自我)に変貌していくことがあります。この悪魔的人物像は、エドモンドバーグラ―の言葉を借りれば、日常を過ごす私に取り憑き、善良さはまったく欠けていて、実際のところそれは怪物、つまり逃げ場のない責め苦や無力でマゾヒスティックな自我の一生にわたる虐待という戦術に終始します。

 

悪魔的人物像すなわち、もう一人の私は、境界の彼方から声をかけ、悪夢を見せ、身体とこころを蝕みます。虐待やいじめ等の被害者で自己愛、境界例、シゾイド、解離性同一性障害の患者さんの病理とは、自らの内にいる悪魔的なもう一人の私そのものであることがあります。患者さんは、内にいるもう一人の私と何年も闘うことになります。もう一人の私は、リストカットし、暴れ、他者を性的に誘惑し、金銭トラブルを起こし、周りを混乱させる行動をとります。一つの身体に、二つの魂と、二つの記憶を持ち、一方が、もう一方に対して、皮膚や肉体を通して、拷問や強姦を行います。

 

▶慢性自殺志向の内的現象

 

現代クライン派の精神分析家のデイヴィット・ベルの自殺の内的現象学を参考にして書いていきます。自殺を望む者は、高い度合いの解離による人格構造に断裂があります。一方は、あたかも正常かのように見せて日常を過ごす私で、親の暴力に恐怖し、凍りついていきますが、もう一方は、やり場のない怒りを爆発させるもう一人の私の部分に断裂されます。虐待などの状況では、子どもは過覚醒となり、暴力的事態に対抗するため野蛮な身体は切り離されますが、日常を過ごす私は、理想化された良い対象との精神性、霊性への一体化を望みます。そして、目に見えない理想化された母親的対象を慕う心性から、通常の人とは死生観が違ってきて、あちら側の世界が本当の家族と再会する場所となり、死こそが救いになります。

 

生きるか死ぬかの過酷な状況では、身体を常に緊張状態に置かれ、過覚醒となるか、麻痺していきます。トラウマを負った人の自律神経システムは破壊され、身体内部の生理的な混乱と闘うようになります。自殺行為によって攻撃される身体は、耐え難い苦しみ、血に飢えた暴力性、痛み、恥、醜さ、悪さ、汚れ、絶望と同一化しています。自殺は、耐え難い対象を排除し、そうすることによって完璧で理想的に感じられる対象と結合しようとする自己破壊行動であると言えます。

 

トラウマにより、身体内部は原始的な反応を示し、その混乱を外在化させ、外的現実と身体内部の境目が無くなくなり、現実検討力が失われます。そして、外の世界の刺激に警戒し、身体内部からも攻撃されているように感じて、無数の目に見えない想像上の脅威と戦うようになります。別の言い方では、体内過敏と気配過敏、視線恐怖などが合わさって、外から内からも攻撃されているように感じ精神的に追い込まれます。その結果、生活全般が困難になるので、自殺を望むようになります。

 

自殺を望む者の背後や心の内的世界には、太古的な悪魔的人物像(もう一人の私)がいて、日常を過ごす私の監視しています。日常を過ごす私がほんの些細な罪を犯した際、この悪魔的人物像は倍返しで罰を与えてくるので、その部分に怯え恐れ震える事しかできなくなります。自殺は、悪魔的人物像への服従であり解放であると感じます。

 

常を過ごす私は病気に負けず幸福や喜びを希求していても、悪魔的人物像(もう一人の私)は人間を憎しみこの世界を怨み人間に制裁を与えることを欲望しています。自殺はこの恐ろしい悪魔的な破壊衝動に逆らうことが困難であることに絶望し、世界を救うために自らを殺そうとする行為と言えます。

 

日常を過ごす私は自殺によって現実の両親に多大な苦痛を与えることに恐怖していますが、悪魔的人物像(もう一人の私)は現実の両親に多大な苦痛を与えることを欲望しています。日常を過ごす私が親への愛情を空想化されているかぎりはいいのですが、ひとたびその空想がつぶされると、どちらの自分かわからなくなり自殺を遂行することがあります。

 

自殺を望む者は、振り向かすことができないという受け入れがたい現実を突き付けてくる対象に対して、悲しみ、絶望して、死と隣り合わせの状況に追い込まれます。

 

自殺には、計画や準備が必要です。自殺する決心が固まると、身辺整理を始めます。