破壊的自己とは、自己が一つのまとまりとして存在する中で、内側に二つの対立する力が作用している状態を指します。一方の力は、自分自身をより高い次元へと成長させようとする欲望であり、もう一方の力は、その成長を妨げようとするものです。この対立する二つの力が互いに攻撃し合い、影響を与え合うことで、破壊的自己が形成されます。本稿では、この二つの力がどのように作用し、破壊的自己を生み出すかについて詳しく探っていきます。
幼少期のトラウマ的な経験は、破壊的自己の形成に最も大きな影響を与えます。過酷な環境にさらされ続けると、子どもは生きることを諦めるか、自己が破壊される危機に直面します。長期間の脅威に晒され続けることで、人は次第に動けなくなり、感情が麻痺し、人格構造が崩壊してしまいます。
このようなトラウマが原因で、内に破壊的自己を宿すようになると、その人の内面世界では、否定的な感情や憂鬱な思いが足を引っ張り、成長への意欲を暗闇へと引きずり込むようになります。過去のトラウマ的な記憶は、あまりにも辛いため、心がその記憶を切り離し、別の自己がその記憶を保持するようになります。こうした感情を切り離していくうちに、もともとの自己から遠ざかり、自分自身が消え去っていく感覚に陥ります。日々このような感覚が続くと、何も感じなくなり、自己が完全に消え去ってしまいます。その結果、何かを経験しても、それを自己成長に結びつけることができなくなります。
それでも、厳しい日常の中で、身体は現実世界の要求に応えていきます。過酷な環境で脅威から自分を守ろうとするうちに、反発する力が育ち、悪魔的な側面が形成されます。一方で、柔軟に適応しようとする肯定的な面も同時に育まれ、両方の側面が複雑に絡み合いながら、自己を形成していきます。
現実の世界では、多くの人が美しいものを求め、人を助けたり社会に貢献したりして、愛され、輝く存在になりたいと願います。しかし、同時に理想に到達できないと感じて、塞ぎ込み、内に閉じこもってしまう側面もあります。このように、理想を追い求めて輝かしいものに自分を満たし、優越感に浸る一方で、そこに到達できないと感じて絶望する自分という、相反する自己が心の中で二極に分裂して存在するようになります。この内的な葛藤が、精神病理に繋がっていくのです。
理想を追い求め、優越感に浸る自己は、過去に身体に刻まれた痛みや苦しい記憶を排除しようと努め、秩序ある美しさや太陽のように輝く魅力的な存在になりたいという強い思いに支配されています。しかし、その光を追い求める一方で、自分が見て見ぬふりをしてきた影が存在し、内心では自分が醜く、理想には辿り着けないという絶望が渦巻いているのです。この光と影の共存が、さらに深い内的な葛藤を引き起こし、自己を苦しめる要因となっています。
絶望の期間が長引くと、理想化された自分と、成長できずにいる身体的な部分との間で、深刻な内的対立が生じます。理想を追い求める自己(前者)は、トラウマによって成長を妨げられている部分(後者)を非難し、攻撃するようになります。この内的な闘争では、前者が「お前さえいなければ、私はもっと輝けたのに」と後者を責め立て、「大嫌いだ」と強烈な敵意を向けます。前者は何度も後者を抹殺しようと試みますが、身体は簡単には消え去ることができず、「痛い、疲れた、しんどい、やめてほしい」と悲鳴を上げ続けます。
前者は、後者が「死にたい」と言いながらも死なないことに苛立ち、「お前がいるから、みんなに迷惑がかかっている。早く消えてくれ」と責め続けます。後者は、「いつ死んだって構わないけれど、僕がいなければ、皆が困るよ」と反論し、身体が存在しなければ生きていけないという現実を強調します。前者は「お前がいるから困っているんだ」と言い返しますが、後者はこう続けます。「それは本当だろうか?僕がいなくなれば君は輝けるだろう。でもその輝きは一瞬で消えてしまうかもしれない。光は光だけでは存在できない。闇があるからこそ、その存在に意味があるんじゃないだろうか。闇が深ければ深いほど、光はさらに輝きを増す。だから僕は君のためにこの真っ黒な闇であり続けるんだ。どうだい、私がいなければ君は困るだろう?」
このように、内なる闘争が続くことで、理想と現実の間で自己が引き裂かれ、自己破壊的な思考や行動に陥りやすくなります。闇と光の共存の意味を理解し、自己の両側面を受け入れることが、内的な和解と成長への道筋となるでしょう。
このやりとりから浮かび上がるのは、トラウマを抱える人がより良い「生」を求める中で、身体に刻まれたトラウマの影響が足を引っ張るため、前者が後者を排除しようとする葛藤です。しかし、後者は、人間が生きていくためには、身体に抱えた痛みや闇さえも、自己を構成する不可欠な要素として受け入れる必要があると主張します。つまり、心と身体、光と闇は表裏一体の関係にあり、どちらか一方を切り離すことは、自分自身の存続を危うくすることを示唆しているのです。
ここから、精神内界における理想自己と現実自己の対立、そしてその結果生じる内的葛藤について詳しく描写しています。この対立は、心理的な苦痛や病理を引き起こし得る重要なテーマです。
理想自己は、「過去に身体に刻まれた痛みや苦しい記憶を排除し、秩序ある美しさや太陽のように輝く魅力的な存在になりたい」という強い欲望に支配されています。これは、フロイトの精神分析における**超自我(superego)**と関連しており、超自我は理想や規範を内面化し、それに到達するよう個人に強く迫ります。しかし、この理想自己が追い求める光は、現実自己を抑圧し、その存在を否定する形で現れることが多いのです。
一方、現実自己は、理想自己によって否定され、攻撃される部分です。これは、**自我(ego)が抱える現実的な制約や、トラウマによる傷を反映しています。現実自己が「影」として存在し、理想に到達できないという絶望を抱えていることは、フロイトが述べたイド(id)**やトラウマの影響とも考えられます。この「影」は、抑圧された感情や欲望、あるいは未解決のトラウマを象徴しており、それが理想自己との対立を激化させる原因となっているのです。
理想自己と現実自己の対立が続くと、「絶望の期間」が長引き、深刻な内的対立が生じます。理想自己は現実自己を非難し、「お前さえいなければ、私はもっと輝けたのに」と攻撃します。これは、フロイトの理論における内的闘争や抑圧の結果であり、現実自己は理想自己によって抑圧され、攻撃され続けます。この内的闘争は、自己破壊的な思考や行動を引き起こしやすくなり、個人の精神的な安定を著しく損なうことになります。
このような内的闘争は、精神分析における分裂(splitting)や投影(projection)といった防衛機制を通じて現れることがあります。理想自己は、自分の理想に達しない部分を外部に投影し、他者や状況に対して批判的になるか、あるいは自分自身に向けて強烈な自己否定や自己攻撃を行います。このプロセスが続くと、抑うつや不安障害、さらには自己愛性人格障害や境界性人格障害といった精神病理に発展するリスクが高まります。
トラウマによって形成された影の自己は、単なる否定的な側面として片付けるにはあまりにも重要な存在です。影の自己は、自己保存のための防衛機制として機能しており、この理解が自己の癒しと成長への鍵となります。トラウマがもたらす痛みや苦しみは、無意識のうちに抑圧されることが多く、その結果、影の自己が誕生します。この影の自己は、表面的には「不完全である自分」というイメージを抱かせますが、実際にはトラウマの影響を引き受けている自己の一部なのです。
この影の自己が内なる対話の中で繰り返し浮かび上がるという事実は、過去のトラウマが今なお解決されていないことを示しています。この未解決のトラウマは、自己の成長を阻害するだけでなく、持続的な内的葛藤を生み出し続けます。光と影の自己が相反する力として存在する限り、自己の統合は難しくなり、自己破壊的な行動や思考に陥るリスクが高まります。
しかし、ここで注目すべきは、影の自己が持つ再生の可能性です。影の自己は、過去の痛みや苦しみを抱えながらも、その存在を通じて自己の脆弱性を認識させる役割を担っています。この脆弱性の認識こそが、自己の成長と再生の出発点となります。自己の影を完全に排除しようとするのではなく、むしろその脆弱な部分を受け入れ、そこから学ぶことが、真の成長に繋がるのです。
自己を統合し、光と影を含めた全体としての自己を受け入れることで、個人は内的な葛藤から解放され、より安定した精神状態を保つことができます。影の自己を理解し、それを内的な成長の糧とすることが、自己実現の道を開く鍵となります。このプロセスを通じて、個人はより深い自己理解と精神的な成熟を得ることができるのです。
このように、理想自己と現実自己の対立、そして影の自己の役割を理解することは、個人の精神的な健康と成長において極めて重要です。この内的統合のプロセスを通じて、個人はより成熟した安定した自己を形成し、内的な平和と外部世界との調和を達成することができるでしょう。
トラウマケア専門こころのえ相談室
論考 井上陽平