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無情な母親との美的葛藤


美的葛藤とは、精神分析家のドナルド・メルツァーの言葉です。メルツァーの著書「精神分析と美」は、赤ん坊が母親の美しさに触れていく美的体験や美的葛藤について描いているのですが、私には独創的すぎて読むのをすぐ辞めました。しかし、子どもが美しい母親を自分のものにしたくても、母親がヒステリーで自己中心的な性格のために、良い人間とは言えない場合は、自分の思う通りに母親は動いてくれず、自分の手に入れたくてもできないので葛藤するしかなくなるという意味での美的葛藤という言葉は好きです。ここでは、ほど良い母親ではなく、無情な美しい母親(自己愛やヒステリーの病理を持つ母親)を愛する子どもについて考えます。

 

人は美しい対象との関係を深めようとすると葛藤が起こります。美しくて眩しい対象は、果たしてこんな自分を受け入れてくれるのだろうか?と思い、美しい対象を目の前にすると自分の欲望や不安が掻き立てられて、美しい対象から見捨てられるかもしれないという不安が高まります。美しい対象がほど良い母親であれば、子どもは不確かなものを探求した先に肌の温もりに優しく包まれて、支配しようとする攻撃性は適度の万能感に変わることになるでしょう。美しい対象が優しくて、心地よい香りのする胸に抱かれると、子どもは愛や幸せ、安堵感を覚えて、全身が弛緩されます。そして、外の世界に対して、恐れることなく、自分らしく生きることができるようになります。

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美しく無情な母親への葛藤


美しい対象が無情な母親であれば、物心ついた頃から、基本的信頼感が育たないまま、愛情が欲しくても満たされず、我慢するしかありません。母親の機嫌が良ければ、干渉してもらえて、自分の居場所ができますが、それは一瞬で終わり、気分次第で無視されたり、酷いことをされたりすると、ずっと振り回されることになり、人間の根源的苦悩になっていくでしょう。子どもは、美しい対象と関わろうとしても、本当の安らぎは手に入らず、いくら追いかけても、条件付きでしか愛されず、母親の理想には届きようがないので、無能という烙印を押されるかもしれません。子どもは、美しい対象との一体感を得て、幸せな生活を送りたいので、美しい対象に見合うだけの自分になろうとして、自分の姿を変えていこうと努力します。また、母親の視線や気配、気持ちを先取りして、どう行動することが正解なのかを考え、母親を喜ばそうとします。その一方で、鏡に映る自分の姿を見ると、理想にはほど遠いほどの無能な自分が映り、変えようのない自分の姿に絶望します。普通のことがなかなかできない自分に対して、もう一人の自分は冷めた目で見ます。このまま頑張り続けるかどうか、辛い日々が繰り返されてしんどいですが、頑張らなければ必要とされないかもしれないと思って、行き場のないような状況にいます。毎日がとても苦しく、辛くても、それでも人は、理想を追い求めていくので、自分の正直な気持ちを押し殺していくしかなくなります。その結果、美しさを求めてこの姿でない姿を求めて愛を空想化している部分と、切り離された本当の自分との間に分断が生じて、人格の構造が歪むようになります。美しさを求めてこの姿でない姿を求める部分は、母親からのおかしなことや嫌なことも我慢して、母親の正解探しに奔走させられながらも、良い子で頑張ります。そして、自分の本音や本当の感情を出せず、良い子のふりをして、母親の言いなりになって、体を壊します。自己が断片化した人が、自分の内面を覗きこむと、渦巻く感情や空っぽの自分と向き合うことになります。そこは空虚で、虚しくて、ブラックホールみたいな穴が空いており、そんな恐ろしいものが自分の中にあって、その大きな穴に落っこちてしまいわないように気を張っています。

 

本当の自分は、自分のことがよく分からなくなっていて、生きているか死んでいるかも分かりません。 どんなことでも母親のためにがむしゃらに尽くして、自分を犠牲にする人生を続けていくと、今更引き下がれる訳もなく、後戻りができなくなります。自分が母親を大切に思うように、母親も自分を大切に思ってくれていると思っていましたが、それが勘違いだということに気づいたとき、今まで積み上げてきたものが崩壊して、人格そのものが断片化していくかもしれません。最終的には、無情な母親を追いかけている限りは、永遠に安らぎは手に入らないので、疲れ切って、見せかけの正常さを維持することも出来なくなります。心の中は母親に分かってもらえない悲しみとか、うまくやれない自分を責めて落ち込んで、真黒に塗りつぶされます。そして、身体に限界がきて、手に力が入らない、足の方も力が入らない、身体がどうにかなって、鉛のような重い黒い塊になり、ヘドロに包まれます。人生に行き詰まり、身動きが取れなくなって、絶望のサイクルにはまり込むと、人格が断片化していきます。その結果、一つ目は、暴力的でサディスティックな超自我の部分であり、今まで、散々母親が裏切ってきたことに対して憎しみ、母親の不幸を願って、復讐のための人生になります。二つ目は、理想化された対象と同一化した部分であり、自分にとって価値があり、輝かしい存在との同一化を望んでいる自我の部分です。しかし、自分の理想には遠く及ばないために、やりたいと思っても、行動できない自分に苛立ちや焦りを感じています。また、自分はどうせ何もできないのだと諦めて、自分を無価値な存在だと規定し、人生に絶望していきます。三つ目は、切り離された子どもの部分です。身体の中に閉じ込められて神経が痛み、不快感が強い部分や、安全な場所に逃避している部分や、無力化された部分、駄々っ子な部分などを併せ持つかもしれません。

 

子どもは、無情な母親に愛されたいという気持ちと、見捨てられることが怖い気持ち、安心できる居場所がないという気持ち、逃げ出したい気持ち、嫌われていると思う気持ち、疑いの気持ち、悲しみや怒りの気持ちなどさまざまな気持ちで葛藤しています。しかし、現実には、永遠に母親から見捨てられるというさらなる危険を感じて、逃げ出すことも、怒ることもできずにいます。だから、一人で悲しんで、落ち込んで、イライラして、疲れ切ってしまっても、この家から逃げ出したいという強力な力を抑制しなければなりません。また、適応的な怒りを表現することもできず、良い子のふりをして演じていきます。そして、母親に褒められたいとか、愛されたいと努力しても報われず、無情な母親を自分の力で変えることができないため、絶望感に打ちひしがれて、涙に暮れることになります。変わろうとしない親とそれでも生きていかなければならず、怒りが向きそうになっても、その怒りを自分に向ける方法しかなくて、自分を傷つけることで対処する人もいます。また、どうしようもないことを、どうしたらいいのか必死に考えて、元気が無くなって、怒りからぐれて非行に走る人や、胸が潰れるような痛みを抱えて生きている人もいます。いずれにせよ、愛そうが、憎もうが、無情な母親に縛られているかぎりは、穏やかな自分の心を育むことができません。

 

身勝手な母親に振り回されながらも、我慢を続けてきましたが、疲れて動けなくなり、身体の中に膨れ上がるようなエネルギーを滞らせます。しかし、それでも生活をこなしていかないといけないので、自分をだましだまししながら、疲れ切った身体を動かします。身体の中には、悲しみや苦しみ、怒り、怯えなどのエネルギーを滞らせており、凍りついた状態で生活しています。トラウマを閉じ込めている人は、交感神経と背側迷走神経が過剰で、その傷が疼き始めると、不快感や苛立ち、焦り、焦燥感で、物事が手につかなくなります。いつも危機的状況にあるかのような生活が続くと解離や自己愛、境界例の病理を作ります。

 

一方で、普通の生活を望んでも変えようのない母親のせいで上手くいかないと自分の方から、無情な母親を切り離す人もいます。そして、今までの悲しみや怒りを少しずつ自分の力に変えて、自分の人生を良い方向に変えていくことができれば、元気になっていきます。さらには、同じように悲しんでいる人々のためにと長い年月をかけて何かに情熱的に取り組むことができれば、新しい自分に生まれ変わることができます。

美しく無情な母親とは


美しく無情な母親は、自分を虐待してきた親を理想化したり、同一化していたりするので、自分を虐待してきた親と同じような養育態度をとることがあります。また、美しく無情な母親は、プライドが高くて、強迫観念を持つ完璧主義者で、不安や心配、不機嫌の振れ幅が大きく、子どもはそんな母親をなだめていくしかありません。

 

未解決なトラウマがある母親は、些細なことに見えても、驚愕反応が起き、圧倒されてしまって、過覚醒反応が出ます。過覚醒のときは、前頭葉の実行機能が十分に機能しなくなり、子どもの精神状態まで十分に理解することが難しく、自分のことばかり話して、情緒応答性や共感力に乏しいです。一方、低覚醒を引き起こしている母親は、全体の脳機能が低下している状態にあり、ぼーっと過ごしていて、周囲への反応に乏しく、思考も働いていないので、子どものことまで考えられません。さらに、周囲のサポートを受けられずストレスが絶えず高い状態にある母親は、子どもの態度に腹を立て、手をあげてしまい、自分の情緒を安定させるために良い子を強要します。また、子どもを自分の優越感を抱くための道具やアクセサリーのように扱う人もいます。無情な母親ほど、自分から変わろうとしないし、変えることはできません。どちらかというと自分を正当化して、自分を守ろうとするので、自分の見たくない面と向き合うことは難しい状態にあります。

 

未解決なトラウマを持つ母親のもとで育つ子どもは、母性のない母親を求めて苦しみ、複雑な感情を抱えることになります。子どもが母親にくっつきたいとか、愛されたいとか、求める気持ちは正常な反応ですが、母親の心は別なものに奪われていて、情緒応答性に乏しく、ときには恐怖を与え、脅かしてくる存在でもあり、怖いとか、近づくなとか、しんどい気持ちのほうが大きくなります。これらの二つの力と力がぶつかり合い、どちらが自分なのかもわからなくなります。さらに、母親から殴られ、酷い扱いを受けた場合は、身体は興奮していくので、交感神経系に乗っ取られ、手を出したり、やり返されたりして、身体も心も限界に達します。そして、乱暴で手に負えない子どもは、更なる拒絶や虐待を呼び込み、愛されなくなります。そのため、母親に愛されたいと願う子どもは、自分の感情を抑制して、母親のことを心配するようになり、母親の期待に応えようと先回りして、できるだけ良い子になろうと努力していきます。

無情な親を愛すること


無情な親とはいえども、優しい一面があり、子どもは、親を求めているので、愛したい、優しく愛されたいと願い、自分の居場所のある日々を過ごしたいと思います。しかし、母親は心の闇を抱えており、自分の事しか考えられないために、求めても愛してくれるかわからないので怖いし、たとえ求めたとしても、自分の思いは叶わないので傷ついていきます。そして、傷つくことが怖く、自分を守ろうとする怒りや攻撃性を憎しんで、親への溢れる気持ちをしまいこみ、愛情をもっている自分のことも憎しみ、その気持ちをかき消そうとします。

 

親への愛がトラウマ化すると、誰かを愛したとき、愛されたいと願ったとき、大事な関係を築こうとした際に、すぐ絶望的な気持ちに落ちて、混乱、興奮、苛立ち、寂しさ、孤立感が襲ってきます。また、大事な人には、傍にいてほしいけど、些細なことでも、悪く受け取ったり、疑ってしまったり、不快な気持ちになったりして、幼少期の親子関係の繰り返しになります。さらに、大事な人との関係では、どうしよう?どうしたいのか?悩んで、焦ってしまって、落ち着きがなくなり、身動きが取れなくなるか、居ても立っても居られない気持ちになるかもしれません。人生において、無情な親を愛すれば愛するほど、しんどくなり、自分自身を不幸にしてしまいます。

 

トラウマケア専門こころのえ相談室

論考 井上陽平

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