メンタライゼーションは、精神分析医ピーター・フォナギーが提唱した概念で、特に境界性パーソナリティ障害(BPD)の病理に深く関連しています。フォナギーは、この障害を持つ人々がしばしばメンタライジング能力の欠如に苦しむことを指摘しました。このメンタライジング能力とは、行動を理解し、予測する際に、自分自身や他者の精神状態や感情、意図を的確に考慮する能力を指します。具体的には、他者の心の動きを察知し、なぜその人がその行動を取るのかを理解しようとする力です。
この能力が欠如すると、他者の意図や感情を誤解しやすく、結果として人間関係において誤解や衝突が生じやすくなります。例えば、境界性パーソナリティ障害の人々は、他者の行動や言葉を敵意的に受け取りやすくなり、感情的な不安定さが悪化することがあります。
メンタライゼーションは、心理療法において重要なテーマであり、この能力を鍛えることで、感情のコントロールや人間関係の改善が図れるとされています。
1.複合的トラウマによるメンタライジング機能の低下
複合的トラウマを基盤としたパーソナリティ障害を持つ人々は、しばしばメンタライジング機能が低下し、心で感じたことや思考が、あたかも現実世界でそのまま起きているかのように体験されます。この現象の背景には、被虐体験やいじめなどのトラウマが深く関わっています。トラウマにより、身体は過剰に反応し、周囲からの悪影響を受けやすくなり、心の余裕が失われます。過覚醒状態(興奮状態)に陥ると、脳の前頭葉の働きが低下し、理性的な判断や自己コントロールが難しくなります。これにより、恐怖や被害感情が強まり、周囲の状況や他者の行動を冷静に理解することが困難となり、他者の内面を想像する力も著しく弱まります。
こうした状態では、自己を外部から客観的に見つめ直すことが難しくなり、現実とのつながりが薄れていきます。トラウマを抱える人は、しばしば極端な二分法的な思考に陥り、物事を白黒や善悪といった単純な枠組みで捉えてしまいがちです。この固定化された思考パターンにより、柔軟性を欠いた視点でしか状況を理解できなくなります。
さらに、トラウマによって心身で安全感を失った状態では、現実と妄想の区別が曖昧になり、自分と他者の境界が不明瞭になります。この結果、目の前の無関係な人を加害者として感じ、自分を常に無力な被害者と見なしてしまうことがあります。このような認知の歪みは、人間関係に混乱をもたらし、社会生活においても大きな困難を引き起こします。
メンタライジング機能の低下は、他者との健全な関係構築を妨げるだけでなく、自己と現実とのつながりも混乱させてしまう深刻な問題です。
2.ポジティブな体験の固定化:理想化と現実の見失い
固定化された見方は、ネガティブな体験だけに留まらず、ポジティブな体験にも影響を与えます。特に、境界性パーソナリティ障害に代表される症状として、相手を過度に理想化し、現実を見失うケースが見られます。例えば、相手の感情や状況を無視し、相手が自分に強い好意を抱いていると感じる「ストーカー気質」のような思考がその一例です。このような状態に陥る人は、相手を自分自身の延長として捉え、他者が独立した存在であるという認識が十分に育っていないことがあります。
この理想化のプロセスでは、相手の現実の感情や意図に目を向けることが難しく、相手の反応を自分の望む形に解釈してしまう傾向があります。たとえば、ほんの小さな親切や好意的なジェスチャーでさえ、自分への特別な好意と過剰に感じ取り、相手が意図していない期待や関係性を築こうとすることがあります。このような固定化された見方は、誤解を生みやすく、人間関係を歪ませるリスクが高まります。
さらに、ポジティブな体験が極端に固定化されることで、自分自身の現実認識が狭まり、自分と他者との境界が曖昧になります。この状態では、自分の欲求や感情を他者に投影し、他者も同じように感じているはずだと錯覚してしまうのです。こうした現象は、特に対人関係において深刻な問題を引き起こし、他者との適切な距離感を保てなくなる原因となります。
このような固定化された思考パターンに対処するには、自分と他者の区別をはっきりと意識し、相手の感情や立場を尊重する視点を育てることが重要です。また、セラピーやカウンセリングの場で、自分の思い込みに気づき、さまざまな視点から物事を捉え直すことが、より健全でバランスの取れた人間関係を築くための鍵となります。
メンタライジング機能が低下している人に対する対応は、柔軟な視点を取り戻し、固定化された考えから抜け出すサポートをすることが重要です。以下のステップを通じて、本人が現実と内面の区別をつけられるように働きかけます。
① 現実と内面の区別を問う
本人が心の中で感じていることが、あたかも現実世界でそのまま起きているかのように体験している場合、その根拠を慎重に問いかけます。例えば、「それをそう感じたのはどうしてだと思いますか?」といった質問で、本人に内面の感覚と外界の事実を見直してもらう手助けをします。
② 異なる視点の可能性を認める
まず、その人の考えや感じ方を否定せず、「その見方が正しい可能性もある」と認めたうえで、「でも、他にどんな見方があると思いますか?」と問いかけ、別の可能性にも目を向けてもらうことで、視野を広げるきっかけを作ります。
③ 固定化された視点をほぐす
もしもその場面に対して一つの見方に固執しているようであれば、「この状況にはたくさんの見方ができるように思いますが、なぜその見方に固執しているのだと思いますか?」と優しく問いかけます。これにより、本人が自身の考え方が狭くなっていることに気づき、柔軟性を取り戻す道を開きます。
④ 別の視点を提案する
セラピストが提示する別の見方を、あくまで「正しい解答」ではなく「一つの選択肢」として伝えることで、本人が安心して新しい考え方を受け入れられる環境を整えます。「こういう見方もあるかもしれませんが、どう思いますか?」と提案し、対話を促します。
最終的には、本人が支配された自分の物語から抜け出し、考え方が柔軟になることを目指します。この過程で、固定化された視点が少しずつ崩れていくとき、メンタライジング機能が改善され、新しい思考のきっかけが生まれます。
トラウマケア専門こころのえ相談室
論考 井上陽平