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慢性自殺志向の内的現象


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▶悪魔的な人物像(サディスティックな超自我)

 

生きるか死ぬかといった脅かされることが繰り返される環境では、愛着システムに作動された弱く甘えん坊の自己の部分は、この世界に絶望し無力化されて眠りにつきます。日常では、痛みを割り振り、身代わりの自己や対抗するための自己が作られ、過酷な環境に適応していきます。そして、人格構造の断層に亀裂が入り、それぞれの自己は解離されていきますが、過酷な環境こそが日常だとみなし、その環境に生き抜けるように組織化されていきます。一般に、異常な環境に特化した自己の部分は、通常の世界の人とは全く異なるつくりなので、普通の人と生きている感覚が違って、一般的な社会に適応することが難しかったり、過剰に適応しすぎる面があります。

 

発達早期のトラウマの種類には様々ありますが、早い時期にPTSDや解離症状を示す子どもと、神経の発達に障害がある子どもは、物心ついた頃から、何かがおかしくて、虐待に遭うリスクが高まります。また、発達早期、問題がある子どもは、通常の子どもたちとは違って、優しいところもあるけど、扱いにくい子どもにされるでしょう。このような子どもは、神経が繊細で、極度に怖がり、寂しがりやで、過剰に警戒していて、刺激に過敏に反応するため、体調を崩しやすくなります。そして、些細な出来事でも、感情的に傷ついて、トラウマ化してしまうため、痛みの身体になっていき、複雑性PTSDや重い解離症状、原因不明の病気になります。

 

発達早期に問題がある子どもは、虐待などを受けるとあまりに激しく体験できないことが起こります。虐待がどれほど大変でしんどくても子どもは親を頼りにしており、愛情を求めて、良い存在であってほしいと思っています。虐待を受ける子どもは、親子関係のストレスにより、フラストレーションの耐性を超えてしまうと、体が固まっていき、体から切り離されたように感じて、意識が鮮明で無くなります。子どもは、親は悪くない、悪いのは自分だから暴力を振るわれるという理解をしていきますが、親の支配や暴力に恐怖し、身体が何度も凍りついて動けなくなって、死んだふりをしてやり過ごします。その一方で、受け入れがたい現実に対して、頭を使って危険を回避しようする部分、周囲を見渡しながら警戒を強める部分、痛みを引き受けて犠牲になる部分、自分に向けられた攻撃や非難に対して反撃や怒りを爆発させる部分を併せ持つことがあります。

 

理不尽な親の振る舞いや学校社会の不条理さのなかで、居場所を失った子どもは、その相手を許せなくなり、一矢を報いてやろうと思います。しかし、自暴自棄から怒りを爆発させるようなことや、反撃しようとする衝動性、半狂乱の部分は、更なる虐待を呼び込みやすくなります。また、思春期にかけて、体も大きくなるので、反撃しようとする攻撃性は、人や自分の身体を傷つける結果になり、非行や犯罪者になる可能性があります。不遇な環境にいる子どもは大人になるにつれて、自意識の高まりや心理社会的意味を知ることにより、変えようのない親への怒りや、学校社会の不条理さを許せないという攻撃性は更に大きくなっていき、現実を拒絶するようになります。

 

トラウマにより、人格構造が解離している子どもは、成長に伴い理性が強くて、思いやる気持ちや精神性を高めていく一方で、やり場のない怒りを爆発させる、もしくは攻撃に対して反撃する部分も非常に危険な存在になっていくために、心の奥深くにある頑丈に鍵がかかった地下牢のなかに閉じ込めるしかなくなります。しかし、その危険な部分は、日常を過ごす私を背後から常に見ており、大きな精神的ショックを受けると、変性意識状態を通じて入れ替わり、肌を傷つける自傷を繰り返します。そして、いつの日か、善良さのない、悪魔的人物像(サディスティックな超自我)に変貌していくことがあります。この悪魔的人物像は、エドモンドバーグラ―の言葉を借りれば、日常を過ごす私に取り憑き、善良さはまったく欠けていて、実際のところそれは怪物、つまり逃げ場のない責め苦や無力でマゾヒスティックな自我の一生にわたる虐待という戦術に終始します。

 

悪魔的人物像すなわち、被害に遭ったもう一人の私は、容赦なく攻撃してきた人物に同一化して、強い感情を持ち、瀕死状態から生き残るような強い生命力があります。彼らは、境界の彼方から声をかけ、悪夢を見させ、その人の身体とこころを蝕みます。虐待やいじめ、性暴力などの被害者で自己愛、境界例、シゾイド、解離性同一性障害、統合失調症の患者さんの病理とは、自らの内にいる悪魔的なもう一人の私そのものであることがあります。患者さんは、内にいるもう一人の私と何年も闘うことになり、自分ではない自分の言動に疲れ果て、周りに誤解されることを繰り返し、苦しい立場に追い込まれ、でも何も言えなくて、絶望的な気持ちになります。自分は人間の皮を被った悪魔のように感じて、自分の感情や行動をコントロールできないくらいなら死にたいと思うようになります。もう一人の私は、リストカットし暴れ、SNSになりますし、声を真似て惑わし、他者を性的に誘惑して、レイプのお膳立てをし、わざといじめられるように悪さをし、物を盗んで金銭トラブルを起こすなどして、周りを混乱させる行動をとります。一つの身体に、二つの魂と二つの記憶を持ち、一方が、もう一方に対して、皮膚や肉体を通して、拷問や強姦を行います。

 

▶慢性自殺志向の内的現象

 

現代クライン派の精神分析家デイヴィット・ベルの自殺の内的現象学を参考にして書きます。自殺を望む人は、高い度合いの解離による人格構造に断裂があります。一方は、あたかも正常かのように見せて日常を過ごす私で、暴言暴力に恐怖して凍りつき、頭の中は真っ白になり、行動のコントロールが効かなくなるため、他人を巻き込んでしまいます。トラウマや解離の影響から、みんなと同じようなことができず、常に辛い状況に置かれれば、記憶が抜け落ちる人生になります。

 

もう一方は、二つの側面があり、一つ目は、日常を過ごす私が外傷体験に曝されたときに気を失うために、その私の身代わりになり、犠牲者となるか、協力的になる私の部分です。二つ目は、交感神経や背側迷走神経に乗っ取られて、過剰な覚醒をベースに動いており、攻撃に対しての反撃性や、やり場のない怒りを爆発させる私の部分です。

 

虐待などの状況では、あたかも正常かのように見せて日常を過ごす私は、正常な生活を送ることに固執するか、理想化された良い対象との精神性、霊性への一体化を望んでおり、暴力的事態に対抗するための野蛮な身体の部分は切り離されます。そして、目に見えない理想化された母親的対象を慕う心性から、現実世界よりもあちら側の世界が自分の居場所になり、そこに本当の家族がいて、再会を楽しむ場所になります。彼らは、目に見えないものを慕う心性から、通常の人の死生観とは違ってくるため、死こそが救いになることがあります。

 

生きるか死ぬかもしれない過酷な状況では、身体は常に緊張状態に置かれて、警戒心は過剰になり、脅威があるかどうかを探るため、視覚・聴覚センサーは研ぎ澄まされて、感覚は鋭くなっていき、敵を発見すると凝視するか、目を反らすかして、恐怖に凍りつくか、興奮して過覚醒になります。このような過酷な環境に長くいると、その人の自律神経システムは破壊されていき、外側の敵だけでなく、身体内部の生理的な反応に恐怖し、自分の身体が敵のようになって、混乱します。自殺行為によって攻撃される身体は、耐え難い痛み、恐怖や怒り、憎しみ、血に飢えた暴力性、無力化された身体、不快感、醜さ、悪さ、恥、汚れ、孤独、絶望と同一化しています。自殺は、耐え難い対象を排除し、そうすることによって完璧で理想的に感じられる対象と結合しようとする自己破壊行動であると言えます。

 

トラウマの凍りつきにより、正常な動作が妨げられて、身体内部には莫大なエネルギーが滞っており、原始的な神経の働きから、様々な身体症状を示します。人はその内部の混乱を外部に投影させていくために、外的現実を潜在的な脅威として捉えていくようになり、身体内部との境目が無くなくなって、現実検討力が失われます。そして、敵か味方かの極端な思考になり、外の世界を警戒し、緊張し、嫌悪刺激があると、闘争反応を示しますが、それと同時に、身体内部からも攻撃されているように感じて、無数の目に見えない想像上の脅威と戦うようになります。別の言い方では、体内過敏と気配過敏、視線恐怖、対人恐怖などが合わさって、自意識過剰になり、外からも内からも攻撃されているように感じて、被害妄想が膨らみ、精神的に追い詰められて、その状態から逃れられなくなります。その結果、人間関係がうまくいかなくて、この世界が悪意で満たされたように感じて、自分がどうすれば助かるかも何も分からなくて、自殺を望むようになります。

 

自殺を望む者の背後や内的世界には、犠牲者となった人格部分と太古的な悪魔的人物像(迫害者人格)がいて、日常を過ごす私のことを後ろから見ていることがあります。そして、過去の忘れられない嫌な記憶が蘇ると、吐き気や胸の痛み、憎しみ、震え、鳥肌、寒気、身体の捩じれ、バラバラになるような恐怖が襲います。このとき、悪魔的人物像は、自分を痛めつけるような幻聴として出現します。また、日常を過ごす私がほんの些細な間違いをしたときでも、この悪魔的人物像は、唸り声をあげて、倍返しで痛みを与えてやると脅すため、その部分に怯え恐れ震えることしかできなくなります。自殺は、悪魔的人物像への服従であり解放であると感じます。

 

日常を過ごす私は病気に負けず幸福や喜びを希求していても、悪魔的人物像(迫害者人格)は、醜いことを考えており、もの凄い怒りを溜め込んでいます。そして、この世界を怨み、人間を憎しみ、復讐することを望んでいて、もっと痛みを欲するようになり、人に痛みを負わせたり、自分に痛みを与えたり、悩ましい状況を作り続けます。彼らは、生きようと思い始めた途端、また悪魔的人物像が現れて、地獄に突き落としてくるので、もう限界になります。自殺はこの恐ろしい悪魔的な破壊衝動(攻撃性や常軌を逸した行動)に逆らうことが困難であることに絶望し、世界を救うために自らを殺そうとする行為と言えます。

 

日常を過ごす私は自殺によって現実の両親に多大な苦痛を与えることに恐怖していますが、悪魔的人物像(迫害者人格)は現実の両親に多大な苦痛を与えることを欲望しています。日常を過ごす私が一般的に言われている幸せが手に入りそうなときに、悪魔は現れて、その希望を打ち砕きます。生きることへの希望は失われ、絶望の淵に突き落とされます。そして、両親や周りへの復讐のために、自殺を望むようなことが起きます。また、日常を過ごす私が親への愛情を空想化しているかぎりはいいですが、ひとたびその空想が潰されてしまうと、どちらの自分かもわからなくなり自殺を遂行することがあります。

 

自殺を望む者は、頑張っても頑張っても、もう二度と振り向いてくれないという痛みを突き付けてくる人物(親、恋人、配偶者、子どもなど)に囚われています。自殺を望む者は、自分よりも他者の存在が大きくなっており、人から必要とされることが心地良さになります。しかし、大切な人との幸せな生活や、自分の居場所を失う危機的な状況にいます。大切な人に対して、いくら頑張っても報われず、話し合っても分かってもらえず、非常に切迫した状況が続き、気が狂いそうになり、死にたいという絶望的な気持ちになります。そして、大切な人を失い、元の生活に戻れなくなってしまうと、何もかも無くなって、自分の生きる意味が失われます。その後、どうしようもない叫びのような想いを一人で抱えて、自分に向き合っても虚しくなるだけで、現実世界に絶望し、身動きが取れなくなります。大切な人が居なくなると、友達も家族もいなくて、ひとりぼっちになり、毎日が虚無感の中で生きるしかなくて、自分を回復させる手段がありません。

 

自殺を望む者は、痛みに凍りつくか、筋肉が極度に弛緩して、身動きがとれない異常事態で、頭(心)は、体から離れています。頭の中は、グルグルと思考が回り続けるため、思い悩み、非常に混乱した状態にあるかもしれません。不快な状況に置かれると、落ち着かなくなり、筋肉が硬直して、息が止まるとか、胸が痛むとか、手足が動き出すとか、頭の中が爆発しそうになります。そして、自分の衝動性を制御できないまま、絶望に打ちひしがれて、自暴自棄な行動をとってしまうことがあります。そして、自暴自棄な行動を取ってしまった自分自身を責め立て、自己否定が強くなります。

 

日常を過ごす私は、自分の感情や行動をコントロールすることが難しく、過覚醒による闘争状態の攻撃性の部分と、人を惑わす挑発的な部分と、死んだふりからの一瞬にかける攻撃性の部分を制御できないことに悩んでいて、傍にいる大切な人を巻き込んでしまうことを恐れています。この攻撃的な部分ゆえに、人間関係をことごとく失敗しており、記憶の無い間に、人を傷つけてしまった過去の体験を後悔し、もう誰にも迷惑をかけたくないと思っているので、こんな自分さえ居なくなればと、何度も自分の存在を消そうと試みます。また、自分のなかにある攻撃性は、自分に危害を加えてきた相手に植え付けられたものであり、自分のものではないと否定して、自分の怒り、妬み、憎しみなどの感情を憎しみ、自殺は身体的・精神的な耐え難い苦痛からの解放であると感じます。

 

自殺を望む者は、交感神経が過剰になり、と同時に、背側迷走神経系が主導権を握ってることが多く、動物が捕食者に捕まり、身動きがとれなくて、絶望のなかで死んだふりをする状態と似ています。絶望的な状況に追いつめられて、希死念慮から逃れられなく、解決する手段もなく、身動きがとれなくなります。そして、とても辛くて苦しい毎日を繰り返していると、感情や思考が行き詰まって、元気が無くなり、呼吸するのもしんどくなり、血圧も低く、顔は青白くて、虚弱化します。死にたい気持ちで限界にきて、夜は眠れず、次第に感情が無くなり、空虚な目になり、何も感じなくなり、全ての欲求が無くなって、生きる意味も分からなくなります。慢性的な虚無感が続くと、出口がなくなり、現実に救いがなくなって、恥や敗北感、無能感、無力感に打ちのめされていき、消えたい、楽になりたいと死を望むようになります。それに加えて身体の調子が悪く、肉体的苦痛が酷く、動くことも辛く、ベッドから起き上がるのも困難な場合は、何もできない自分が周りに迷惑をかけていることに耐えれず、意識の狭窄や焦燥感が加わると自殺への危険性が高まります。

 

自殺には、計画や準備が必要です。周囲には、いつか自殺するかもしれないと苦悩のサインを出し、無力感で弱弱しい声を出しています。そして、誰かからの救いの手を差し伸べられることを願っています。最終的に、自殺する決心が固まると、誰にも連絡せず、何のサインも出さずに、冷静に身辺整理を始めます。死に流れ込むときは、心の中のすべての色が消え、死ぬことが怖いという感情がなく、妙に落ち着いて、すべてが無機質に感じ、自己陶酔に浸ります。

 

慢性自殺志向から、自殺を完遂してしまう人は、理性脳と情動脳のバランスが取れていません。理性的な自分は八方塞がりな状況にあり、その苦痛から逃れられず、凍りついていき、恐怖から情動脳に支配されます。感情の起伏が激しくて、自分で自分のことがよく分からなくなり、離人感や解離により、足元がフワフワして、現実から離れていき、自分と外の境界が無くなり、外の世界と一体化して、自分ではなく、もの化して、そのものになっていきます。自殺の前触れでは、高い所に行くと下を見下したときに引き込まれそうになり、駅に行くと電車のほうに引き込まれそうになり、川を見ると川そのものに引き込まれそうになります。

 

死ぬことは苦痛からの解放であり、死への恐怖の抑制が外れ、頭の中は死で一色に染まって、過剰な覚醒から、身体の方が早く死んでしまいたいと動き出します。自殺するときは、人生にうんざりして、何も考えられなくなり、何も聞こえなくなり、非常に混乱しています。もはや自分に救いがなく、何もかもが嫌で苦しく、楽に死にたい、消えたい一心で、意識の狭窄や記憶が曖昧のなか、その場にいられなくて、無意識下の行動により、気がつくと柵に手をかけていたり、ホームの端に立っていたり…という状態です。飛び降り自殺では、何者かが乗り移って、身体が勝手に動き出して、本来の自分は身体から少し離れた位置にいて、見ていることがあります。そして、衝突する直前に、自分に憑りついていたものが消えると表現する人もいます。

 

まとめると、解離によって生活の困難を乗り越える人もいますが、悪魔的に作用すると、被害に遭った部分は痛みに閉じ込められ、強烈な怒りを抱えることになります。このような内的な悪魔的人物像は、日常生活において希望を挫く存在となり、自滅的な行動を引き起こします。自分自身の人生が他者によって制御されるため、恋愛や家庭を持つという一般的な願望が失われてしまいます。それでも希望を持つものの、繰り返し地獄のような状況に陥り、最終的に大切な人との関係が終わることになります。

 

その結果、大切な人を巻き込んで傷つけることを避け、幸せになってはいけないと感じます。苦痛の中でもがく人にとって、死は解放であり、逃げではなく救いになります。大切な人との関係が完全に終わったり、肉体的な苦痛から逃れられない状況で過去の辛い記憶に苦しみ、体調不良やフラッシュバックによって動けなくなると、人は限界を感じ、絶望し、死を計画します。自殺は、トラウマや解離の影響で自分が異常だと感じ、もう迷惑をかけたくないという思いや、自分をコントロールできなくなる前に自分を絶つ行為です。

 

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論考 井上陽平