V.E.フランクル「夜と霧」新版(池田香代子訳)
たとえば、強制収容所で亡くなった若い女性のこんな物語を。これは、わたし自身が経験した物語だ。単純でごく短いのに、完成した詩のような趣があり、私は心をゆすぶられずにはいられない。この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。
「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」彼女はこのとおりに私に言った。
「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、私はすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」
その彼女が、最後の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。
「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」
彼女がそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷の病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。
「あの木とよくおしゃべりをするんです」
わたしは当惑した。彼女のことばをどう解釈したらいいのか、わからなかった。譫妄状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと?それにたいして、彼女こう答えるのだ。
「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしはここにいるよ、わたしは命、永遠の命だって……」
ここからは、極限状態に置かれた彼女について少し考えてみましょう。彼女は、想像を絶する極限状態の中で、病棟の窓から見える満開の美しいマロニエの木を「たったひとりのお友だちなんです」と語り、その言葉に彼女の内面性が深く表れています。人は、何かに思い悩んでいるときに、道端の花や鳥の声に引きつけられることがありますが、極限状態においては、その感受性がさらに鋭くなります。そして、人は自然界の中で、木もまた人と同じ生命体であると気づき、その存在と一体感を感じることができるのです。しかし、彼女がマロニエの木から感じ取ったものは何だったのでしょうか。極限状態の中で、彼女は自然界の壮大さの中で自分の状況がいかに小さく感じるようになったのでしょうか。それとも、それは単純なものではなかったのでしょうか。
彼女は「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、… わたしは命、永遠の命だって…」と語っています。彼女はこのマロニエの木に、自分の守護者を見出していたのではないでしょうか。マロニエの木は彼女にとって、孤独な中で安心感を与える存在となり、その木に向かって必死に話しかけ、近づくことで生命のぬくもりを感じていたのでしょう。このマロニエの木は、苛酷な運命を背負った彼女の感情や心の核心を守り、支える存在であったに違いありません。さらに、強制収容所での過酷な現実に直面するのはあまりにも辛すぎたため、彼女はこのマロニエの木に自分の理想を投影し、その木が発する励ましの声が彼女の生きる意味や希望となり、彼女の内面性を深めていったのだと思います。そして、最終的には、その残酷な運命にすら感謝の念を抱くことができたのではないでしょうか。
トラウマケア専門こころのえ相談室
論考 井上陽平