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トラウマの内なる世界

セルフケア防衛のはたらきと臨床


 

ユング心理学による神話的イメージを道標としながら、フロイト諸派の洞察も総動員し、豊富な臨床例・物語例を手掛かりに、錯綜しかつ変幻するトラウマ後の心的回路を解きほぐします。ドナルド・カルシェッドはわたしにトラウマ後の内なる世界に現れる「内的対象」について詩人のような美しいメッセージで教えてくれたユング派の臨床家です。ここでは、ユング派とフロイト諸派を動員させ、カルシェッドが精神分析対象関係論を考察した内容を紹介します。

老人/少年の分裂(ヒルマン|ユング派)


老人元型は「歳とった王」とその暴君的な命令、父権的な構造、あらゆる冷たく・乾いて・よそよそしく・抽象的で・硬直したもの、を表している。彼は人工的なもの・欺瞞・隠遁・孤独の主であり、保守的で、限界をもち、悲観的なのである。この否定性は本来の老人/少年元型に起こった分裂を反映している。「否定的な老人元型は自分の少年元型から分裂しているのだ。彼は自分の子どもを失ってしまっているのである」。一方、この「子ども」は「セルフ(自己)のスピリチュアルな側面の化身」であり、「我々が最初生まれながらにもっていた性質を表したもの…つまり我々の美に対する親和性、神的なもののメッセンジャーとして、あるいは神のメッセージとして、我々にある天使のような本質」なのである。

角をはやした守護神(ザルマン|ユング派)


角をはやした神はひとつの恒常的な機能をもっているが、それは護るということである。それゆえ、男性のこころにおいてはこの人物像はよくいて、不適切な父性的養育の埋め合わせ、最初は強力で危険な、しばしばダイモン的な男性として、ときには親切と知性に取り憑かれた、毛むくじゃらの異教の野性人として出会うことになる。シャーマンのように姿を変える者として、角をはやした神は動物の姿となることもでき、その影の面においてそれはしばしば狼男になる。個人の生活においてこのエネルギーが抑圧されるか分断されたときには、この角をはやした神は冥界の王として現れる。すなわち、ガイア自身によって彼のために台地に開けられた避け目を通って、ベルセポネを略奪したハーデスとして。このように、彼は奥義を伝える生命の力であり、こころにある本質的でファリックな創造的エネルギーであり、道を開き、自我を暗黒へと略奪するのだ。キリスト教においては、彼は地下の国、すなわち地獄を支配している。他方ではルシファーとして、彼は光をもたらす者であり、無意識を肯定的な仕方でとりなすのである。

自我が投影されたコンプレックス(サンドナーとビービ|ユング派)


自我が投影されたコンプレックスとは、ふつう自我アイデンティティの部分としては体験されず、むしろ他者に投影された特性として体験されるものである。自我が投影されたコンプレックスはまた、ふつうは二極的であり、「優勢な残酷さと脆弱な傷つき」のような特質のあいだで「分裂している」。それぞれの極はひとつの夢のなかで表されるかもしれない。自我が投影されたコンプレックスの悪魔的な表れは、…セルフの暗黒部分から発しているのであるが、それはセルフの防衛なのである。分析家の物事を明らかにしようとする努力に抗する、こうした強力な防衛の機能は、子どもを押しつぶす両親の欲求や指示に直面して、少なくとも部分的なセルフの生存を可能にするために、発達のなかで必要となってきた抑圧を保とうとしているように思われる。悪魔的な防衛として、こうしたセルフの否定的側面はアニマあるいはアニムスをして、破滅的な効果をもたらし得る投影がなされるようにする。

背徳老人とトリックスター(レナード|女性著述家)


どんなベルセポネにも、彼女を略奪し地下へと連れて行くハデスがいるように、永遠の少女のこころには、男性の厳格で権威主義的な面の病んだ亡霊が棲んでいる。彼は、無視されてきたために病んで意地悪くなった老賢者であると考えられる。私の考えでは、父親が娘のために深く関与したり責任をもって存在していなかったという、傷ついた父性発達のゆえに無視されたのだ。

 

人生の転回点に達する前に、私は再発を繰り返した。どの再発をとっても、私のこころの創造的な力をもたらすかわりに、狡猾で強力な元型的な人物像が私に抗った。トリックスターである。嗜癖をもつ者は誰でもこの人物像をよく知っている。嗜癖の始まりにおいては、トリックスターは遊んでいる大いに誘惑的なエネルギーである。病気が進むにつれて、否認・隠匿・自己欺瞞がおこなわれるときにはいつも、彼は飛び出してくるのだ。嗜癖において、誘惑的なトリックスターはしばしば他の地下世界のキャラクターたちと同盟している…金貸し…ギャンブラー…ロマンティックな奴…地下世界の男…反抗的なアウトロー…混沌とした気のふれた女…批判的な裁判官…ついには殺人者…。我々の内にあるこの悪魔的な勢力と、それと戦うには自我は無力であることを認めることだけが、助けを求める方向へと導くだろう。それによって、がんじがらめに拘束する力の輪から愛の輪へと大きく前進するのである。

生得的な剥奪者(ピンコラーエスティース|女性著述家)


それは、我々に生まれてくる愚弄的で残忍な敵対者であり、たとえ最上の養育をもってしても、この侵入者の唯一の任務は、あらゆる十字路を行き止まりにしてしまうことである。この略奪をする力ある者は女性たちの夢のなかに何度も姿を表す。それは彼女たちのもっともたましいを込めた意味ある計画の渦中に突如として現れる。それは女性を彼女の直観的な本質から切断する。その切断の仕事がなされるや、その女性は感情が何も動かなくなり、自分の人生を進める気力も萎えたままに置かれるのである。彼女の考えや夢は精気を抜かれて彼女の足元に転がるのだ。

 

このスピリットの子どもは奇跡の子どもであり、天の召命を聞くことができ、もう帰るべき時である、自分自身へと帰るべき時である、という遠くのかすかな声を聞くことのできる子どもなのだ。この子どもは我々を駆り立てる、仲介的な本質の一部である。なぜなら、それは召命は来たときにそれを聞くからである。それは眠りから、寝床から、家から身を起こし、風が吹きすさぶ夜へと、荒々しい海へと踏み出す子どもであり、それが我々に「神が見ていてくれるから、わたしはこの道を進むだろう」あるいは「わたしはもちこたえるだろう」と断言させるのである。

自傷的な「ダイモ二オン」(バーグラー|精神分析)


サディスティックな超自我による自傷が神経症の確信であるという考えを展開した。その超自我には善良さはまったく欠けており、実際のところそれは怪物、つまり逃げ場のない責め苦や無力でマゾヒスティックな自我の一緒にわたる虐待という戦術に終始する「ダイモン的な」内的作用である。この責め苛む内的状況がどのように出現するかは、それは即座の欲求充足を求める魔術的全能性、あるいは幼児的誇大妄想のひとつなのである。この幼児的な願望が現実の「ノー」に出くわしたとき、幼児の無限の怒り、つまり、未発達な運動機能のせいで適切な表現を見出せない攻撃性をもたらす欲求不満を経験する。この攻撃性は最初自分の外に投影され、悪い母というものになるが、それからそれは自我に「ブーメランのようにはね返り」、内から容赦なく自分を攻撃するサディスティックな超自我に組み込まれるのである。虐待の内的作用を確立することによって、子どもは無意識に、自らのどの願望にも敵対しているようにみえる環境に直面して、誰か他の人の意志に従属するという「慰め」よりは自分が抑うつになることを好んで、その誇大妄想や自己充足を護っている。超自我による起因する苦痛のリビドー化、すなわち快楽への防衛的な転換である(心的マゾヒズム)。

悪意の/善意の「偉大なる存在」(オディアー|精神分析)


魔術的な水準とは、迷信や全能感、原始的な情動によって特徴づけられるものである。それはこころに対して二つの相反する作用を及ぼす。ときには破壊的な作用を、またときには保護的な作用を。ひとつの側においては、極悪非道で破壊的な魔術的思考(黒魔術)つまりトラウマとなった子ども時代の遺産であり、もう片方の面では、幸福な子どもの生後数年間をとりまいていた善良な魔術的思考(白あるいはピンク魔術)である。魔術的思考のこうした相反するかたちに対応しているのが、「偉大なる存在」と呼ぶものであり、それはトラウマをもった子どもの内的世界を絶えず脅かすようになるか、それを神聖なものにするようになる。ちょうど魔術的思考が二つの相反する作用、すなわち破壊と保護を及ぼすように、この巨人のような空想化された「存在」には、かたや有害で破壊的、かたや善良で保護的という二つがある。言い換えれば、それらは子ども時代の原初的な情動の対象化を意味している。

世話人自己のトランスパーソナルな知恵(フェレンツィ|精神分析)


とてつもない耐え難い苦しみ、絶望的な無力感、外的な援助の断念、コントロールの完全な放棄をともなった希死念慮、つまり自分自身を空っぽにしての攻撃者との完全な同一化が生じた。しかし、「その幽霊に身を譲り渡してしまう」瀬戸際に、なにか新しいものが患者の内的世界で活動しはじめたのである。「生命本能を組織化すること」あるいは「オルファ」として知られているものが覚醒し、死の代わりに、人格を切り刻み断片へと分裂させ、そうして死を避けるために狂気へと駆り立てた。いまや人格は内面的に二つの部分から成っている。破壊されたもの(退行した感情の構成要素)と、その破壊を見ているもの(亢進した知的構成要素)の二つである。「オルファ」つまり破壊を「見ている」部分がある。「彼女」は超個人的な存在であり、明らかに時空を超えており、耐え難い苦痛が起こったときには、「頭の中の穴を通って宇宙へと抜け、星のように遥か遠くに輝き」すべてを外から見ており、全知なのである。この「アストラル片」は地上的存在の利己的な圏域を去って千里眼になり、「そのような極悪非道な事柄がなぜ起こるのかを捉えるために、当の侵害者を理解することを超えて、いわば全宇宙の『客観的理解』へと向かう」。オルファは一つのことだけに関心があり、それは生命の維持である。彼女は守護天使の役割をする。彼女は苦しんでいるあるいはひどい目に遭わされた子どものために、願望充足のファンタジーを作り出し、助けを求めて全宇宙を探しまわる。

ダイモンの恋人(カヴァラー・アドラー)


女性芸術家(創造性の強迫的な側面)の無意識にある「ダイモンの恋人コンプレックス」について。おそらくこうしたわけで、創造的な文学作品について考える際、デーモンの恋人という形で理想化されかつ悪を及ぼす父親を反映する神話が見出されるのである。デーモンの恋人は、自己表現的な体験の瞬間には詩神として、次の瞬間には悪魔として現れ得る。詩神は霊感を与えるもので、官能的である。彼は「創造的なエクスタシー」を鼓舞することができる。しかし前エディプス的なこころの拘束に苦しむ創造的な女性に対しては、下劣なデーモンは、彼女に取り憑き、創造的なエクスタシーを、自殺への熱狂性や孤立、死のような冷感性に変えてしまうのである。そうして死のイメージが溢れることになる。そうでなければ、躁的で自己愛的な様式の防衛を通して、理想化された詩神の父親が再び作りあげられる悪循環が続かざるを得ない。前エディプス的な拘束が緩和されないうちは、唯一、絶望、病気、死あるいは自殺だけがその循環を終わりにすることができるのである。

 

参考文献

D・カルシェッド:(豊田園子,千野美和子,高田夏子 訳)トラウマの内なる世界』新曜社 2005年

Hillman.J.(1983)"The Bad Mother."Spring,Dallas,Tex.:Spring Publications:165-81.

Salman.S.(1986)The Horned God:Masculine Dynamics of Power and Soul,Quadrant,Fall:7-25.

Sandner.D.and Beebe.J.(1982)"Psychopathology and Analysis."in M.Stein(ed.)Jungian Analysis,La Salle,Open Court:291-334.

Leonard.L.S(1989)Witness to the Five:Creativity and the Veil of Addiction,Boston,Mass.:Shambhala Press. 

Pinkola Estes,C.(1992):原真佐子・植松みどり 訳『狼と駈ける女たち』新潮社 1998年

Bergler.E.(1959)Principles of Self-Damage,Madison.Conn.:International Universities Press.

Odier.C.(1956)Anxiety and Magic Thinkin,trans.M-L.Schoelly and M.Sherfey,New York:International Universities Press.

フェレンツィ.S.(1932):森茂起 訳『臨床日記』みすす書房 2000年

Kavaler-Adler.S.(1993)The Compulsion to Create:A Psychoanalytic Study of Women Artists.New York:Routledge

 

トラウマケア専門こころのえ相談室 

論考 井上陽平

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