ナルシシズムという言葉は、ギリシア神話のナルキッソスの物語に由来します。ナルキッソスは、泉に映る自分の姿に恋し、その美しい姿を抱きしめようとしましたが、やがてそれが自分自身であることに気づきます。彼はその美しさに見とれ、泉のそばで何時間も横たわったと伝えられています。この物語が示すように、ナルシシズム(自己愛)は自己自身を対象とする愛の状態を表します。フロイトは、ナルシシズムを発達の初期段階における自己愛、すなわち自他未分化の状態で外界から閉じこもった「一次自己愛」として定義しました。
自体愛のナルシシズム、特に解離型のナルシシズムは、自分の中にある自分でない部分を理想化し、その部分を愛する心性を指します。これには、神のような存在として崇めたり、恋人やイマジナリーフレンドとして大切にすることが含まれます。新興宗教の教祖や霊媒師など、特定の役割を果たす人々にこの傾向が見られることがあります。また、自分の中にいる精霊のような存在に恋する人は、現実世界から離れ、無垢さを育んでいくことになります。
この内なる人物像との関係は、発達早期の外傷体験や痛ましい出来事によって形成されます。解離型のナルシシズムは、過酷なトラウマを経験した人々、特に虐待を受けた子どもや犯罪被害者に見られる特徴です。彼らは凄まじいショックを受けると、心と体が分離し、自分の内部に新しい存在が宿ることがあります。この存在は、彼らにとって守護者や迫害者としての役割を果たし、外の世界から自分を守るための盾となるのです。
内なる人物像は、多くの場合、天使や神霊、賢者として現れ、トラウマを抱えた人々の心の支えとなります。家庭や学校生活で困難に直面しても、この内なる存在が彼らを守り、励ましてくれます。こうした存在は目に見えないものの、常に自分のそばにいて、自分を導いてくれる存在として心強い存在です。これらの内なる人物像は、老賢者や守護天使、トリックスター、双子の子どもなど、さまざまな形で現れることがあります。
内なる人物像が恋人やパートナーのように理想化される場合、現実世界で他者と関係を築くことが困難になることがあります。特に性犯罪被害者や虐待を受けた人々に見られ、彼らは自分の心と体が別物のように感じられます。彼らは、内なる人物像に対して強い愛情を抱くことで、現実の人間関係から距離を置く傾向があります。このような状況では、内なる人物像が神話のような世界に彼らを誘い、現実世界からの逃避を助長します。
内なる人物像を愛することは、現実世界で他者を愛する能力を妨げることがあります。彼らは、子どもの頃に親からの愛を求めることが絶望に変わり、現実世界での愛や幸せを感じることが難しくなります。外の世界で人々と繋がろうとしても、裏切りや失望がつきまとい、内なる人物像に頼ることで安全を感じようとします。しかし、これは現実逃避であり、現実世界での人間関係を構築する能力を低下させるリスクがあります。
内なる人物像が保護者ではなく、迫害者として現れる場合、その人物像は怒りや怨念のような性質を持つことがあります。内的な不安が外の世界に投影されると、迫害妄想が強まり、世界が危険に満ちたものとして感じられます。こうなると、外の世界との関わりが極端に難しくなり、自分自身を守ることに精一杯になってしまいます。このような状況では、内なる人物像が幸せな自分を許さず、他者との関係を断ち切ろうとします。
まとめると、ナルシシズムの一環として内なる人物像を持つことは、現実世界での愛や幸せを追求する上で複雑な影響を及ぼします。内なる人物像に依存しすぎることで、現実世界での信頼できるパートナーを見つけることが難しくなることがあります。現実世界でのパートナーシップが必ずしも幸せに繋がるとは限りませんが、内なる世界を深めすぎることで、現実での幸せの可能性を低めるリスクがあることを認識する必要があります。
現実世界での愛と内なる世界での自己愛のバランスを保つことは、個人の幸せや精神的健康にとって重要です。内なる人物像がどれほど慰めを与えるものであっても、それが現実世界での関係を築く力を妨げる場合、そのナルシシズムは慎重に取り扱うべきです。現実の世界で他者と信頼関係を築くことが、自分自身の成長や幸福につながる可能性が高いことを忘れないようにしましょう。
トラウマケア専門こころのえ相談室
論考 井上陽平