人格の断片化
外傷体験に曝された人間は、どのような反応をするのかを述べていきます。命を失いかねない危険に直面すると、人は目の前の出来事の観察者になり、自分を危険から切り離します。人は命を失いかねない危険に曝されると、知覚の断片化が起こり、二つ以上の自分(破壊的なトラウマを見ている部分/見られている部分など)が存在する状態になることがあります。この分裂した自分の状態を精神システムと身体システムに分けて説明すると、外傷体験に曝された精神は、命を失いかねない場所から少し離れて、恐怖や痛みを感じずに過ごしている人格部分と、自分の身体から遠く離れた上空から冷静に観察している人格部分とに分かれます。その一方で、身体の方は、交感神経が活性化して、外傷体験に曝されながらも生きようとする本能に動かされている人格部分が存在します。フェレンツィは、「心的外傷は、死という完全な解体に向けての解体プロセスである。人格の野蛮な部分である身体は、破壊プロセスになお抵抗しつづけることができるが、無意識性と精神の分断は、すでに人格の洗練された部分が死につつある兆候である。」と述べています。人は生命が脅かされるとき、身体の内部の空間に閉じこもることで対処したり、この起きている状況を少し離れた位置から観察して、冷静に対処することができます。

 

基本人格(本来の私)の深い眠り
幼い子どもが命を失いかねない危険に直面した場合は、あまりに冷たく厳しい現実に対して機能停止に陥り、生きようとすることを諦めます。フェレンツィは、この諦めを「その下には人生についてもう何も知ることも望まない存在がある。……覚醒時の自我がそれについてまったくなにも知らないもともとの子供である。」と述べています。この諦めにより、基本人格(本来の私)や子ども人格(インナーチャイルド)は、無力化され、小さくなっていき、身体の中心(お腹やみぞおち辺り)に閉じ込められてしまい、眠りにつきます。以後、代わりに生活を行うのは、日常生活を過ごすために適した人格部分や外傷体験に適合した人格部分になりますが、生活全般が平和になると、基本人格はこの世界に戻ることができます。ただ、小さい子どものままなので生活スキルが足りなく、生活全般(学校、職場、子育て、家事)の困難なことは、日常生活を過ごすシステムが引き続き行います。

 

観察者の人格部分(精神性・霊性)
命を失いかねない危険に直面した精神機能のある部分は、危険から離れて宙に浮き、上空から自分を冷静に眺めています。これは、体験する人格部分と観察する人格部分の分離であると言えます。観察者の人格部分は、本来の私の魂の半声割れのようであり、客観的かつ理性的な思考を持っており、頼りになる存在です。また、宙に浮いていて、驚異的な頭脳を持ち合わせている場合、他の人格部分たちからは、天上の精神世界に住んでいる神々しい存在として尊ばれることがあります。例えば、ソクラテスに取り憑いていた善きダイモーンとは、この観察者の人格部分を言い表していると考えられます。観察者の人格部分は、本来の私の理想化された良い対象になり、スピリチュアル(精神性、霊性)へと繋がります。アメリカのユング派では、この現象をダイモン(神霊)の恋人として研究しています。この観察者の人格部部分は、本来の私の守り神として存在し、ピンチに陥ったときに、声として話かけてきます。

 

フェレンツィは、この宙に浮いている存在について、「生命維持を「何物にも勝り」優先する固有の存在(オルファ)。この断片は守護天使の役割を演じて願望充足的な幻覚、慰撫的ファンタジーを生成し、外的感覚が耐えがたくなったときには、意識と感受性を無感覚化してそれに対抗する…。自己破壊過程における驚くべき、しかし一般的に妥当するように見える事実は、不可能になった対象関係の自己愛的なものへの突然の変換である。すべての神に見捨てられた人間は、現実をすっかりすり抜け、地上の重力に妨げられずしたいことは何でも達成できる別世界を自ら創造する。愛されてこず、痛めつけられさえしてきたため、彼は、自身から一片を切り離し、その部分が、頼りになり情愛のあるたいていは母のような世話人の形で、人格の苦しめられた残部の哀れみ、それを世話し、それについて決断してくれる。このすべてが、もっとも大きな英知、もっとも透徹した知性にとってなされる。それは知性と善意そのものであり、いわゆる守護天使である。この天使は、苦しんでいるあるいは殺害された子どもを外から見て(ということは、彼は「破裂」の過程でその人物から外にいわば孵化した)、助けを求めて全宇宙をさまよったり、他の何も救ってくれない子どものために空想を作り出したりする。」と述べています。

 

あたかも正常にみえる人格部分(本来の私の代わりになる部分)
命を失いかねない危険に直面したとき、本来の私の代わりになる部分は、危険な状況にいるはずなのに、身体から少し切り離された位置にいて、痛みや不安を感じることなく過ごしています。この人格部分は、時間感覚がゆっくりで、感情・身体感覚が分断され、注意に問題があり、外傷体験の前後が極度に非現実化されて制限を受けています。オノ・ヴァンデアハートは、「あたかも正常にみえる人格部分としてのサバイバーは、正常な生活を続けようと努力することに固着しており、日常生活のための活動システム(たとえば、探索、世話、愛着、など)に導かれている。」と述べています。また、フェレンツィは、「最上層には、正確に―やや正確すぎると言ってもよかろうー調整されたメカニズムを有する、活動可能な生きた存在がある。」と述べています。

 

あたかも正常にみえる人格部分(子どもなら愛着・探索システムに駆動されている)は、外傷関連の記憶や感情への恐怖が条件付けらています。彼らは、不安を感じないように、身体も心も守ろうとして、いくつもの仮面を被って自己を作り上げることもあります。また、ジャネの言う結合不全と精神力の減弱による心理学的貧困状態にあり、意識の覚醒水準が低下して、忘れっぽさによる解離性健忘が生じたり、些細な刺激に対して不安が高まると、怒りや興奮してしまって、自分をコントロールすることが難しかったりします。さらに、まとまりのある自己感覚が持てず、過覚醒と低覚醒の間を行ったり来たりしているので、一貫した行動様式を持つことが難しいです。昼と夜ではこの世界の見え方が変わるので、夕暮れどきに不安定になり、性格ががらりと変わるようなことが起こります。例えば、昼は明るいので、周囲の気配が気にならず、元気に過ごせますが、夜になると、暗闇で気配に過敏になり、些細なことでも恐怖し、圧倒されてしまって、被害妄想が膨らんでいきます。また、通常の覚醒状態のときは、愛着を求めて、人との繋がりを求めていますが、一方、過覚醒のときは、過去のトラウマと現在の時間軸が二重に折り重なり、些細なことで苛立ち始めます。また、低覚醒のときは、ストレスを避けるために頭を空っぽにして、ぼーっとしてやり過ごします。

 

外傷体験に焦点づけられた人格部分(身体性・本能)
命を失いかねない危険に直面したとき、外傷体験に焦点づけられた人格部分は、残酷で恐ろしい攻撃を受けるなど危険な状況にあり、生々しいエネルギー(恐怖や激しい怒りのような情動)のなかで、我を失いながらも身体(目、耳、鼻、四肢等)は生き残ろうとします。

 

①虐待者の接近に反応して警戒する人格部分

②そこから逃走を図ろうとする人格部分

③虐待者と戦うために鬼となり闘争する人格部分

④虐待者に捕まって凍りつき抜け殻のようになった人格部分

⑤虐待者をなだめるように服従した行動をとる人格部分

⑥それらの体験に怯え泣いている人格部分

 

それぞれの人格部分がある目的を持って活動しています。こうしたトラウマに焦点づけられた人格部分(警戒、逃走、闘争、凍りつき、服従)は、交感神経が活性化した過覚醒状態(意識の狭窄)にあり、外傷を負った瞬間から時間が止まったままで、幻覚を見ており、今を生きることが難しい状態にあります。

 

オノ・ヴァンデアハートは、「情動的人格部分としてのサバイバーは、外傷を受けたときに活性化された活動システム(過覚醒、逃走、闘争など)に固着している。…通常は、「子どもの」情動的人格部分は外傷を受けた時点に固着されていて、あたかも正常にみえる人格部分よりも数が多い。非現実化が重篤で広範囲であるために、彼らは自分自身を文字通り実際の子どもとして経験するのである。」と述べています。また、フェレンツィは、「この殺害された自我の下には初期の精神的苦悩の灰がある。これに苦悩の炎が夜ごとに灯る。」と述べています。

 

参考文献

オノ・ヴァンデアハート:『構造的解離』(訳 野間俊一、岡野憲一朗)星和書店

シャーンドル・フェレンツィ:『臨床日記』(訳 森茂起)みすず書房