美的葛藤

▶美しい対象との関係

 

美的葛藤とは、精神分析家のドナルド・メルツァーの言葉です。メルツァーの著書「精神分析と美」は、赤ん坊が母親の外面的美しさに触れていく美的体験や美的葛藤について描いているのですが、私には独創的すぎてすぐに読むのを辞めました。しかし、美しいものを自分のものにしたくて、でも対象は悪すぎて、自分の思うようにはいかずに葛藤するという意味で、美的葛藤という言葉は好きです。ここでは、ほど良い母親ではなく、無情の美しい母親(自己愛やヒステリーの病理を持つ母親)を愛する子どもについて考えました。

 

人は美しい対象と関係を持つと葛藤が起こります。美しすぎて眩しすぎる対象は、果たしてこんな自分を受け入れてくれるのだろうか?と思い、美しい対象を目の前にすると自分の欲望や不安が掻き立てられ、美しい対象から見捨てられる不安が高まります。ただし、美しい対象がほど良い母親であれば、子どもは不確かなものを探求した先に肌の温もりに優しく包まれて、支配しようとする攻撃性が適度の万能感に変わることになるでしょう。美しい対象が優しくて、子どもが心地よい香りのする胸に抱かれると、愛や幸せ、安堵感を覚えて、全身が弛緩されていきます。そして、外の世界に対して、恐れることなく、自分らしく生きることが出来るようになります。

 

▶美しく無情な母親への葛藤

 

美しい対象が無情な母親であれば、物心ついた頃から、ずっと振り回されることになり、人間の根源的苦悩を作り出すことになるでしょう。子どもは、美しい対象を求めても、本当の安らぎは手に入らず、いくら追いかけても、条件付きでしか愛されず、母親の理想には届かないので無能という烙印を押され続けることになります。子どもは、美しい対象との一体感を求めて、美しい対象に見合うだけの自分になろうと努力して、自分の姿を変えていきます。また、母親の視線や気配、感情を気にして、母親に喜ばれようと努力します。その一方で、鏡に映る自分の姿を見ると、理想にはほど遠いほどの無能の自分の姿が映り、変えようのない自分の姿に絶望します。しかし、それでも人は希望を持ち続けていこうとするので、無能の部分を切り離すしかなくなります。その結果、美しさを求めてこの姿でない姿を求めて愛を空想化している部分と、切り離された無能の部分の間に分断が生じて、人格の構造が歪むようになります。美しさを求めてこの姿でない姿を求める部分は、母親に振り回されながらも、愛されようとして、良い子で頑張ります。そして、自分の本音を話せなくなり、良い子のふりをして、母親の言いなりになって、周りの欲望に染まります。ただ、自分の内面(無能の部分)を覗きこむと、渦巻く感情や空っぽの自分と向き合うことになります。そこは空虚で、虚しくて、ブラックホールみたいな穴が空いており、死へと吸い込まれそうになります。無能の部分は、感覚が分からなくて、生きているか死んでいるかも分かりません。

 

どんなことでも母親のために犠牲になる人生を続けていくと、後戻りができなくなり、今更引き下がれる訳もなく、人格そのものが断片化していくようになります。最終的には、無情な母親を追いかけている限りは、永遠に安らぎは手に入らないので、疲れ切って、見せかけの正常さを維持することも出来なくなります。心の中は母親に分かってもらえない悲しみに、落ち込んで、真黒になります。人格そのものが断片化した結果、一つ目は、暴力的でサディスティックな超自我であり、今まで、散々母親が裏切ってことに対して憎しみ、母親の不幸を願って、復讐のための人生になります。二つ目は、理想化された対象と同一化した部分であり、自分にとって価値があり、輝かしい存在との同一化を望んでいます。あとは、逃避的でマゾヒスティックな子どもの部分や、無力化された子どもの部分を併せ持つかもしれません。その一方、無情な母親を喪失するような体験をすると、もはや頑張る必要が無くなり、生きる意味も失われます。

 

子どもは、無情な母親に愛されたいという気持ちと、見捨てられるのが怖くて安心できる居場所がないという気持ち、逃げ出したい気持ち、嫌われていると思う気持ち、悲しみや怒りの気持ちなどさまざまな気持ちで葛藤しています。しかし、現実には、永遠に母親から見捨てられるというさらなる危険を感じて、逃げ出すことも、怒ることもできずにいます。だから、一人で悲しんで、落ち込んで、イライラして、疲れ切ってしまっても、この家から逃げ出したいという強力な力を抑制しなければなりません。また、適応的な怒りを表現することもできず、良い子のふりをして演じていきます。そして、母親に褒められたいとか、愛されたいと努力しても報われず、無情な母親を自分の力で変えることができないため、絶望感に打ちひしがれて、涙に暮れることになります。変わろうとしない親とそれでも生きていかなければならず、怒りが向きそうになっても、その怒りを自分に向ける方法しかなくて、自分を傷つけることで対処する人もいます。また、どうしようもないことを、どうしたらいいのか必死に考えて、元気が無くなって、怒りからぐれて非行に走る人や、胸が潰れるような痛みを抱えて生きている人もいます。いずれにせよ、愛そうが、憎もうが、無情な母親に縛られているかぎりは、穏やかな自分の心を育むことができません。

 

身勝手な母親に振り回されながらも、我慢を続けてきましたが、疲れて動けなくなり、身体の中に膨れ上がるようなエネルギーを滞らせます。しかし、それでも生活していかないといけないので、だましだまししながら、疲れ切った身体を動かします。身体の中には、悲しみや苦しみ、怒り、怯えなどのエネルギーを滞らせており、凍りついた状態で生活しています。トラウマを閉じ込めている人は、交感神経と背側迷走神経が過剰で、その傷が疼き始めると、不快感や苛立ち、焦り、焦燥感で、物事が手につかなくなります。いつも危機的状況にあるかのような生活が続くと解離や自己愛、境界例の病理を作ります。

 

一方で、普通の生活を望んでも変えようのない母親のせいで上手くいかないと自分の方から、無情な母親を切り離す人もいます。そして、今までの悲しみや怒りを少しずつ自分の力に変えて、自分の人生を良い方向に変えていくことができれば、元気になっていきます。さらには、同じように悲しんでいる人々のためにと長い年月をかけて何かに情熱的に取り組むことができれば、新しい自分に生まれ変わることができます。

 

▶美しく無情な母親(悪い母親)とは

 

美しく無情な母親は、自分を虐待してきた親を理想化して同一化していたりするので、自分を虐待してきた親と同じような養育態度にとることがあります。また、美しく無情な母親は、プライドが高くて、強迫観念持ちの完璧主義者で、不安や心配、不機嫌の振れ幅が大きく、子どもはそんな母親をなだめていくしかありません。未解決なトラウマがある母親は、些細な刺激にも圧倒されて過覚醒を起こすので、前頭葉の実行機能が十分に機能しておらず、子どもの精神状態まで十分に理解することが難しく、自分のことばかり話して、情緒応答性や共感力に乏しいです。一方、低覚醒を引き起こしている母親は、全体の脳機能が低下している状態で、ぼーっと過ごしていて、周囲への反応に乏しく、思考も働いていないので、子どものことまで考えられません。さらに、周囲のサポートを受けられずストレスが絶えず高い状態にある母親は、子どもの態度に腹を立て、手をあげてしまい、自分の情緒を安定させるために良い子を強要します。また、子どもを自分の優越感を抱くための道具やアクセサリーのように扱います。無情な母親ほど、自分から変わろうとしないし、変えることはできません。

 

未解決なトラウマを持つ母親のもとで育つ子どもは、複雑な感情を抱えることになります。母親にくっつきたいとか、愛されたいとか、求める気持ちは正常な反応ですが、情緒応答性や共感力に乏しく、恐怖を与え、脅かしてくる存在でもあるため、怖いとか、近づくなとか、しんどくて離れたくなります。これらの二つの力と力がぶつかり合い、どちらが自分なのかもわからなくなります。さらに、母親から殴られ、酷い扱いを受けた場合は、身体は興奮していくので、交感神経系に乗っ取られ、手を出したり、やり返されたりして、身体も心も限界に達します。そして、乱暴で手に負えない子どもは、更なる拒絶や虐待を呼び込み、愛されなくなります。そのため、母親に愛されたいと願う子どもは、自分の感情を抑制して、母親のことを心配するようになり、母親の期待に応えようと先回りして、できるだけ良い子になろうと努力していきます。

 

▶無情な親を愛すること

 

無情な親にも、優しい一面があり、子どもは、親を求めているので、愛したい、優しく愛されたいと願います。しかし、求めても愛してくれるかわからないので怖いし、たとえ求めたとしても、自分の思いは叶わないので傷ついていきます。そして、傷つくことが怖く、自分を守ろうとする怒りや攻撃性を憎しみ、親への溢れる気持ちをしまいこみ、愛情をもっている自分のことを憎み、その気持ちかき消しそうとします。親への愛がトラウマ化すると、誰かを愛したとき、愛されたいと願ったとき、絶望の方が強くなって、混乱、興奮、苛立ち、寂しさ、孤立感が襲ってきます。傍にはいてほしいけど、些細な問題に対しても、どうしよう?どうしたいのと焦ってしまって、落ち着きがなくなり、身動きが取れなくなり、居ても立っても居られなくなります。

 

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